なぜエベレストに登るのかと聞かれて、「そこに山があるからだ」と格好よく答えたのはイギリスの登山家ジョージ・マロリーです。この発言は1923年のものらしいのですが、実はマロリーの母国イギリスでは、当時そこに山が有るからといっておいそれとは登れない状況だったというのは歴史の皮肉な裏話です。イングランドに限って言えば、最高峰は湖水地方のScafell Pike(標高978メートル)と日本で言うと裏山程度の高さ。私の住むシェフィールドから近いピーク・ディストリクト国立公園の最高峰となるともっと標高が下がって、約630メートルのKinder Scoutということになります。そしてこの山の「低さ」こそが、山に登れない状況をつくっていた当の原因だったのです。
つまり、山が低いために山の頂上に至るまで牧草地や狩猟地としての有効利用が可能であり、そのため私有地として囲われてしまっているという訳です。ですから、かつてKinder Scoutに登ろうとする場合には、所有者の許可状が必要でした(仮に許可無しで登山して見つかった場合には暴行を受けたり逮捕されたりすることもあったそうです)。山に登りたくてもおいそれとは登れない状況を打破するために、1932年にマンチェスターの労働者約400名がKinder Scoutに不法侵入するという政治行動を起こし、その結果逮捕者などもでましたが、段々と市民の「歩く権利」が整えられる契機となったということです。現在イギリスでは、私有地の中であったとしてもPublic Footpathと呼ばれる歩道が設けられている場合には立ち入ることが許されていますし、漸く2000年になって「アクセスランド」として指定された土地については私有地であってもその中を自由に歩き回ることができるという法制度が整いました(どこが「アクセスランド」かは地図上に明記されています)。しかしまだ登ることのできない山や丘というのは国内に散在しているので、登山者の権利獲得の運動はまだ止むことがないようです。 |